久しぶりの更新

震災から一年。

1年前、地震が起こってからの出来事を思い出すと本当に人間が嫌になることが多かったように思います。

特にショッキングだったのがトイレットペーパーの買い占めです。

あの行動に何の意味があったのでしょう?そんなにケツを拭きたかったのでしょうか?記憶が確かなら、まずまっさきに、水よりもトイレットペーパーがなくなりました。水がなくなったのはその後原子炉の問題が表面化してからですね。

僕は人間というものがもっと理知的な存在であると信じてその時まで生きていましたが、震災は見事にその幻想を打ち破ってくれました。

なんだったのでしょうかね?オイルショックの記憶がまだ日本人には残っていたのでしょうか?謎です。

百ヶ日

百ヶ日がおわり一か月以上がたちました。

一か月過ぎても、まだ涙が止まりません。いいんです。どうせどの宗教も信仰してませんから。ただ、百ヶ日が過ぎたんだなって。

無理やり日常に戻ろうと思った時期もありました。でも、駄目でした。日常に戻ろうとすればするほど焦って、かえって戻れなくなってしまいました。

食欲だけはしっかりあるので全く僕も業が深いなぁと思いながら日々を過ごしています。

弟が死にました

僕は弟が大好きでした。最愛の弟でした。



弟は大変頭がよい人間でした。県下で一番の高校をトップクラスの成績で合格しました。

弟は大変まじめでした。決めたことは絶対にやり通しました。

弟は大変優しい性格でした。僕をしかりながら影ではかばってくれていました。



弟は大変頭のよい人間だったので、確実に首が絞まるやり方を選択しました。

弟は大変まじめだったので、決めたことを見事に完遂して見せました。

弟は大変優しい性格だったので、家族に心配かけまいと相談してくれませんでした。



僕は気がつけませんでした。弟の出していたサインに気がつけませんでした。まさか追い詰められていたなんて思いもしませんでした。いつもより明るい弟の様子を見てむしろ安心していました。


僕は伝えることができませんでした。僕から見た弟のよいところをきちんと弟に伝えることができませんでした。いとおしい存在であることを伝えることができませんでした。愛していることを伝えることができませんでした。自慢の弟であると周囲に言いふらしていることを伝えることができませんでした。


手遅れでした。母が発見した頃には、体は冷たくなっていました。父は泣き崩れて使い物になりませんでした。近所の方が救護にやってきてくださいました。僕は電話に飛びつきましたが、119が焦って思い出せなくなってしまいました。弟のあごは既に硬くなっていて気道確保は困難でした。救急隊は駆けつけるとすぐにだめだと判断し、警察を呼びました。


僕の弟が死にました。僕の最愛の弟が首をつって死んでしまいました。苦しんだ形跡は軽微でした。

あはは

前篇とか書いておいて後篇書かないでやんのね。

なかなかポジティブになれなくてまとまった文章書く気力が起きません。まあ、まとまっているのかこの文章たちはとは常に思っていますが。

それでですね、すでに月日がたって後篇何書くかを忘れてしまいましたよ。困ったものです。俺ほんと困った。しかし、何かネタを見つけて書きたいなって気持ちはあるんですよ。まあ、こう思っている時点で書けませんね。

ネタにマジレスする(前編)

 ちょっと前にはやっていた読まなきゃ人生8割損をする小説の話について思うことを書く。

 そもそも論として、人を定義することはできないと思うのだが、いわんや、普遍なる人の一生を左右するものを見つけることはできるのだろうか?
 人は生まれてきた環境が一人ひとりまったく違う。もうね、びっくりするぐらい違いますよ。読んできた本やかかわってきた人たちからの影響をバリバリ受けるし、個別の経験なんかも読書には影響してくる。思想書を読まない人間がいきなり『存在と時間』を読んでも意味がわかる分けない*1。写真をとってきた人間にしかわからない本もあろうし、料理に関心の無い人間がどんなにすばらしい美食についてのエッセイを読んでもまったく意味がない。
 だから、なにか「これこれこういうことを経験した人」とか「これからこういうことをしようとしている人」に向けてしか、この答えは出てこないのではないだろうか?

 これに対する反論は、人なるイデアは存在する(とされて社会は動いている)。なれば我々が考えている人という概念に対する共通認識を知るためならば、社会のルールを知ることと同義であり、個人の一生を左右しかねないだろうというものが考えうるが、それならば、小説ではなく『リヴァイアサン』を読めばよろしい。難しければ近代政治学の入門書とかなんでもいい。
 小説などにそのような普遍的な人間像は決して描かれない。描かれるのはどこまでいっても個人だ。理想の人と理想の個人は別の概念である。


 ゆえに語られるべきは、自分のバックグラウンドとそのバックグラウンドを持つがゆえに感銘を受けた小説についてだ。それが無い「読まないと人生8割り損するような」小説の紹介なんてありえない。似たバックグラウンドを持つ人物が読むからこそ読まなきゃ8割り損するような小説が存在するのであって、ただ感動したり興奮したり満足したりするようなものは8割り損させるような小説ではない。ただの面白い小説だ。

 

*1:読んでいても混乱するのだから!

頭がパーンについて思うこと

 ネットで特定の宗教を叩いて喜んでいる人たちのことがよくわかりません。


 今からする話は、ネットで宗教を否定するなという話でもありません。例えば、自分が被害を受けたための告発や宗教を装った詐欺グループ、あるいはその宗教団体の構造的欠陥を指摘する行為は、意味のある行為だと思います。あるいは会話内での悪口やツイッターでつぶやくぐらいだったら、まあ、島宇宙のことですからといえると思います。


 でも、とぅぎゃったーにまとめたり、ニコ動でMADにしたりするのはどう考えてもシュミが悪いと思います。いえ、僕は彼らの行っていることはシュミが悪いを通り越して社会にとって有害なのではないかとすら思っています。


 人が信仰しているものをオラが村にあわないからといって民が率先して弾圧することは歴史上よくありました。今でも、ムラ社会的なところに残っていると聞きます。しかし、僕たちの住む近代社会は、それを否定して成り立っているはずです。魔女狩りが許されるわけがありません。


 一方で、私の母親が集会に呼ばれ*1100人近い信者に囲まれ「入信しないと地獄に落ちる」といわれ続けるという酷い勧誘を創価学会からされたことがあります*2。ですから、あの宗教団体に問題があることは確かでしょう。でも、それと、頭がパーン動画や創価を馬鹿にした年賀をおくったことを報告する動画が肯定的に受け止められている状態というのは、分けて考えねばならない問題だと思います。


 創価の例を挙げましたが、旧約聖書ヤハウェを馬鹿にするとぅぎゃったーをみて気分が悪くなったことがあり、創価に限らず宗教一般に対してこういった傾向があるように思います。特定の宗派に所属しているからといってえらいわけではないのと同様に*3無宗教であることも別にえらくありません。まして、何の信念も信仰心もなく、なんとなく仏教徒とかなんとなく神道なんてのはちゃんちゃらおかしいじゃないですか!*4


 もっとも、これはネットを観察して見えるひとつの表れであり、実態はもう少し違うところなのかもしれません。なので、お尋ねします。僕にはまったくにわからないのです。馬鹿にして気分がすっきりしているそこのあなた!あなたですよ!ぜひ質問に答えてください。なぜ彼らを攻撃するのですか?あなたは被害を受けたことがあるのですか?なぜ、馬鹿にするという形で攻撃するのですか?それにいったい何の意味があるのでしょう?

 回答お待ちしております。

*1:普段お世話になっている人に頼み込まれ、どうしても断れなかったのです

*2:「じゃあ、地獄に落ちるからいいです。」といって勧誘を断ったのが母の武勇伝

*3:昔、「俺は西本願時派だ。そんじょそこらの宗教とは違うのだ」と誇られたことがありました。

*4:こう書くと何か特定の宗教やってる人みたいですが、僕は人格神は無理だろうというタイプの無神論者(定義問題で真理とか法則を神と呼ぶならばそれはいささか否定しない。)で、宗教は信じていません。無神論もひとつの宗教ですけどね。